防災について考えてみた

今週のお題防災の日

目下そなえておかねばと思うのは、地震、台風。

 

ただ、実際に自然災害というとまだまだたくさんある。

雨、雪、風、雷、気候、地震、噴火が一次誘因として、さらに色んなケースがある。

参考)防災基礎講座 基礎知識編

 

自然じゃないもの、人的災害も含めるとさらに増える。

 

災害対策グッズを備えておこうと考えたときに、むっずかしいな〜と思ったのは、いろんな人がいろんなことを言っているから。

ケースわけができてないわけだ。

標準的な対策ケースがまちまち。

各家庭において、住んでいる地域が都市部なのか農業地帯や山間部、海岸部なのか、家族は健康かどうか、そういうのも含めて、標準を参考に備えるというのがベースのはず。

なのに、そういう話にならない。

だれも正解にたどりついてないからなんじゃないか。

熊本・大分の震災を見てても思った。行政ですら標準ができていない。当事者も周辺地域の支援者も、場当たり的なのだ。

 

たくさん研究も進んでいるのは知ってる。いろんな情報はネットにたくさんある。

けど、その実践展開がいまいちだなと感じる。

ネットに情報をあげて安心してない?って思う。

通信がとぎれたらどうすんの?雨の中で動くときはどうすんの?

高齢化でスマホなんて持ってない人たちも多かろうに。

テレビだよりの人たちも多い中で、誰に何を求めてるんだろう・・・

 

かといって、よくわからない冊子を発行されても税金の無駄遣いだと思う。

ハザードマップの冊子は、決定版って感じでとてもいいと思った。

何冊もあってはどこに情報が・・・ってなる。

 

けど、危険な場所はわかったけど。って感じかな。

命さえ助かればって避難するだけじゃ、QOL低い避難生活が待ってるんだよね?

もっと準備すべきなんじゃないの?って思う。

 

想定の範囲外として、場当たり的に振る舞うのはもうやめようよ。

こんなご時世、災害は想定内だよ。

二週間で自力で立ち上がる!ぐらいに持って行かないとしょうがないんじゃないかな。

 

となると、ネットに色々ある情報を検索してる暇がおしい。

整理された、自分にだけ必要な情報がまとまっているのがいい。

あとは自分たちの工夫で乗り切るしか無いから、やりがちなミスとか、そういう注意点だけでもいいかもしれない。

けど、もう事前にこうやって乗り切るっていう風にやり方まで決めておくのが、一番スムーズだと思う。その上で、パーツとして部材として、道具として足りないものを工夫で間に合わせるっていうのにしておかないと。

 

そしてそういう情報をまとめるなら、PDFでいいんだと思う。各自でプリントしてよ、って。

それで、気が向いたら近くのネット使ってない人に差し入れしてあげることもできる。

白黒両面で20円。あめちゃんあげる感じ。

1枚を8ページの冊子状にしておくことだってできる。

目がわるい人には大きく印刷してあげればいいわけだし。

2upとか4upとか、やり方は色々あるよね。

 

ソフトでできそうだよね。

コンテンツをA41枚くぎりで準備しておいて。

自分にあった必要な情報をドラッグして、自分だけの冊子にして。

自動的に目次も作ってくれて。

ドキュワークスとかベースにすぐできそう。

PDFファイルで保存して、できれば印刷しておいて。避難用バッグにいれておく。

 

そういうコンテンツビジネスできないかな?

1ページ何円とかで、被災経験者とかの人がUPして。

災害対策したい人がコンテンツ選んで買うの。

1ページ5円とかなら、8ページで40円だ。

アラカルトもできるし、標準セットをベースにすることもできる。

 

例1)都会に住む一人暮らしの会社員

p1:沿線の避難情報

p2:勤め先近くの避難情報

p3:災害ダイヤルの利用方法

p4:親族との連絡方法

p5:怪我の応急手当方法

・・・

 

例2)地方沿岸部に住む60代夫婦

p1:災害グッズで作るレシピ集

p2:災害時の代用品おすすめ集

・・・

 

PDFにして各自で印刷してもいいし、

たしかそういうオンデマンドパブリッシングってあるんじゃなかったかな。

情報代+1000円で製本してお届け。

 

印刷会社さんとかやらないかな。

こ、これはうまい。モスの豆乳スイーツ!レアチーズ風!

台風ですね〜

低気圧で弱りまくってます。

頭痛やら腹痛やら体調が悪い。

血糖値も安定しないのか、いろいろぐるぐるしてスイーツを食べることに。(完全なる判断ミス)

 

昨年あたりから販売されてるんですね。

気づかなかったです。

小麦、卵、乳、砂糖を控えて暮らしてたんで、スイーツから大分離れてました。

ケーキ・クッキー大好きだったんですが、じんましんやかゆみがでる感じとかあったんで、食べない方が体が楽だなって自然と思えました。

メープルで甘味は補充してたからですかね、体を無視して食べちゃおうとかは思わなかったけど、夢にはよくでてきました。

食べちゃって、はっとするっていう夢。

 

最近では夢にすら見ることもなく、メープルで満足してるっていうのも大きいと思うんですけど、やっぱチーズケーキ好きだったので、モスでみつけて買っちゃったんですよ。小麦、卵、乳、砂糖不使用のチーズケーキ。

砂糖不使用っていうのがめずらしい!

実際には甜菜糖でも、ちょっと体が辛いこともあったりするので、はちみつとかもね、使いすぎるとダメだったりしてね、まぁこの体調悪いときに買うっていう完全なる判断ミスなんですが、体調悪いときはほんとに判断が勢いに任せた感じになるんですよね・・・

 

で、食べてみました。

ケーキだっていう見た目。素敵。素敵。

 

うんんんんまいっ

 

これがスイーツの甘さだよなぁと思い出しました。

メープルとかの甘さとは根本的に違う、はっきりくっきりした甘さ。

あ、もちろん、一般には甘さ控えめっていうんだと思いますよ。

ただ、ほんとに甘みを控えた生活をしてると、おおっと思う甘みです。

毎日食べたらちょっとかゆくなりそうだけど、一週間に1個とかなら大丈夫かも。

 

レアチーズ部分だけでも再現できないかなぁ。。。

そんで果実だけで作ったジャムとあわせたら美味しいだろうな〜〜〜

アーモンドもちょっと避けてるので、めっちゃおいしいけど土台部分は見送る。

 

いや、やっぱり食べない方が体は楽なのかも。

豆乳も濃いのは無理だし。。

 

なんて思いつつも、頭の中では豆乳+レモンでクリームつくってゼラチンで固めるのかなぁ・・・なんて考えてしまうのでした。

本当はどうだったらいいの?

いまはもう社会保険庁じゃないんだよねぇ。

日本年金機構という特殊法人

組織はどうなってるんだろうと調べると、年金事務所も年金機構の一部なのね。

日本年金機構になって何が変わったの? [年金入門] All About

 

会社でいうと本社機能と支店との連携が悪いってことかな。

支店のノウハウを全国展開しようにも、地域特性があるからそのまま展開も出来ないので、部分最適に陥らざるを得ない。

 

思い切ってどこかにスタンダードを定めて、合理化を進めた場合、全体的なクオリティの低下に陥る。(電話がつながらない)

 

ノウハウ選定しようにも、どこをスタンダードに定めるかの選定も非常に難しい。

規模や、構成比などで分けていくつかのスタンダードを作ってもいいけども。

そうなると全312カ所のコンサルテーションという膨大なプロジェクトになる。

自主的に動ける人たちがいる支店であればいいが、問題意識もなく改善意欲もない人がいいだけの地域だって多々あるわけだ。(それはそれで宝でもある)

 

さらに、そういう横断的な業務を進める経験をした人はほとんどおらず、組織内で合意形成のプロトコルが定まっていないため、推進負荷ははんぱない。

 

どこへ行っても村社会的な発想は予想できる。超えるのは楽じゃない。

ものすごいカオスや隠していた不正に気づいてしまうこともある。

耐震関連の事件を見てても、大なり小なりのあるあるだ。

 

判断を行う経営層も万能じゃないので、現場に知恵や正解があるよね!となり堂々巡り。ある意味、俺のビジョンについてこいタイプだと過労死するので、まぁ平和。

 

旗振り役は現場もおさめつつ、経営層の納得もいく(見た目のよい)正解を出し、恨みやぼやきに責任感を感じながら、自分の能力に限界を感じる・・・。

それらを乗り越え無視して、正の自己評価で完全武装すると、お気楽な上位の中間管理職群の誕生。

 

リーダーシップ・・・かぁ・・・

 

イデアの創出」

それが必要なんだと何度も思った。

けれど、この感覚が通じる人はほんとに少ない。

議論にならない。何の話をしてるの・・・?

ちょっとわかる人でも、そんなことできるの・・・?

課長はちょっとわかってても、懐疑的だし自分の仕事で手一杯で、よろしくしてくる。

色んな人の知恵と経験を集めてしか作れないのに。

誰かが正解を出してくれると思うなー!

 

何度、「本当はどうだったらいいと思いますか?」と聞いたか。

自分たちで自分たち自身に聞いてほしいよ。

 

なんでそんなに理想を見ないようにしてるんだか。

そんなに耐え忍ぶ毎日が楽しいのか?

 

 

・・・

もしやるとするなら、トップの了解を取り付ける。

権限委譲と非介入、保護の約束を取り付ける。

情報開示は確実にやるけれども、必ずこちらの味方をしてくれと。

印籠が目に入らぬかっていうところから始まらないと、変わらないんだろうな。

 

けど、ここ日本で、安定した法人ならば、黙って我慢して働いてる方が楽。

イデアなんてほとんどの人が理解しないし、理解されないものを提案して受け入れてもらうなんて土台無理。

いや、彼らは印籠さえあれば、飲めないものも全部飲める体質の人たちだけれども。

 

大きな愛が必要だよね。

理解されなくてもいいから、彼らの社会を良くしてやろうという。

結局、私はそこに絶望した。

 

それともトップではなく、私たち全員に共通するこの怠惰さを指摘して、個々人がそれを乗り越えるように行えばよかったんだろうか・・・

そうか、切り込んで対決するのをさけたのが敗因かもしれない。

 

先人たちの培ってくれた余剰を食い尽くすまで、お尻に火がつくまで、旧組織内では大きな価値の創出に結びつく動きは、おそらく無理だと思う。

 

バブル世代くらいまでは逃げ切るだろう。

はじから少しずつ削られながら、逃げ切れれば勝ちだ。

とはいえ、バブルたちも後期高齢になって自分の体が動かない状態で、その報いを受けるかもしれない。

私たち世代にしても同じだ。

 

すべてがいちばんよいようになりますように。

ねんきんダイヤルではなく直通番号を探すべし

用あって、ねんきんダイヤルに電話してみた。

IP電話なので、03からはじまる番号にかけてみた。3分8円。

ププッというIP電話ですよの信号のあと、プープープー。

 

何度かけてもつながらない。

もしや、番号が違う・・?

 

何度も確かめるが、間違いない。

音声案内にすらならないの?

 

不安になり、検索することに。

「ねんきんダイヤル 話し中」っと。

いっぱいでてきた。

みなさんお困りのようす。

 

検索すると直通電話番号が見つかるんだと!

なら、管轄区域の年金事務所で出るだろうなーと思い、検索したらバッチリ。

しかも、市外局番から始まるその番号からは音声案内があり、

さらには音声案内の詳細もPDFであげてくれてる。ありがとう。

 

2点ほど確認があったのだが、別々の部署での回答案件だったらしく、

そのこともわかりやすく説明してくれて、ほんとにありがとうだった。

 

けっきょく行かないといけなくなったので、ちょっとストレスだけど。

でも、お役所なのに「お客様」と呼びかけられてびっくり。

良い意味でのびっくりだ。話し方もやさしかった。

説明もきちんとしてる。

手続きには3回くらい通わないといけないとかも

事前に教えてくれて、こちらの無駄のないように配慮してくれている。

 

ねんきんダイヤルは、サイトを見て、混雑予想を見て、

今日の朝9時台なら空いてそうなのを確認してからかけたのに、

まったくつながらなかった。

それに比べて、地元の年金事務所は、すっごくちゃんとしてた。

 

きっと、ねんきんダイヤルにかけてつながらなかったり、

たらいまわしにされた人は、旧社保庁に不信感をつのらせて

それに直面しないといけない側の人たちもストレスだろうなぁと思った。

たぶん、経費節減、コストカットとかで、働く人たちも大変だろうなぁ。

 

すべてがいちばんよいようになりますように。

VR

不思議な滅び

それは世界

それは私自身

それを恐れ

恐れていることさえ忘れ

何かに突き動かされて

私たちは生きる

あなたは何を恐れているのか

私たちさえわからない

言語のあそび

それだけが

彼を混乱させ

平和へと導く

 

私は気づく

この世界を深く深く愛していると

いや、愛しているのではなく、とても気に入っているのだと

それと同時に恐れている

得ることも失うことも

 

滅びてほしくないと願っている

それは同時に滅びを望むこと

 

行き場の無い存在が

私のからだをも縛り付けている

 

世界は滅びる

滅びを望んでいる

その危機感をとても気に入っている

強く強く愛していると感じられるから

 

それは愛の不能感

私には愛せないという不能感そのもの

 

お気に入りのバーチャルリアリティ

タバコを吸って窒息感にあえぐのと同じ

吸わなければそもそも楽に呼吸ができるというのに

脳も冴え渡るというのに

 

 

 

両親と幼い頃のこと

私は何に押しとどめられているのだろう。

それは、ひきつった反応、うわずる内臓・・・

 

幼い頃のことを思い出す。

ある日、幼稚園の下足置き場は園児たちでごったがえしていた。私はそれを見て、流れが過ぎるのを待とうと思った。人とあらそわずに済むなら。

その後、私の自我は様々に変形し、いったい私とはなんだったのかわからなくなった。一番古い自我の記憶

幼い頃の私は、よく腹を立てていたと思う。くやしい気持ちがよく起こったのをおぼえている。そして、それは3歳頃には他者へ、特に大人への不信感へと育っていた。いまではすっかりなおったが、よく人を睨みつけていた。アルバムでさかのぼると、それが3歳くらいに始まっている。あとから母が漏らしていた話と照らし合わせると、離婚の危機もあった頃だそうだから、その影響もあったのかもしれない。ちなみにうちはカトリックで、病弱な父がもう働けないと専業主婦をしていた母につげたことを神父様に相談しにいったところ、神父様は母に「あなたが働きなさい」と指示をした。母は、父をどうにかしてほしかったのに、すべて自分に帰ってきてしまったのだ。母も病気がちで、やっとつとめをやめて家に入れたというのに、ものすごい憤りが走ったようだ。それから母は、体を酷使して働くようになる。家事もこなし、資格もとり、年収も父よりも稼ぐようになっていく。しかし、もとから体が弱いので、ガン、うつ、躁鬱などを繰り返していた。

今思い出しても、心がぎゅっとなる。この人たちの人生とは一体なんだったんだろうかと、本当にずっとわからないでいる。つかの間の安堵や、老後のために働きづめで、楽しかったのだろうか、生まれて来てよかったと思ったことはあったのだろうか、ふたりが60歳そこそこで亡くなっていく姿を見て、私は本当にわからなかった。天国へ行けてよかった。苦しい生から解き放たれてよかった。生とはそんなものでしかないのか?

私を成人近くまで育てあげて、それで責任を果たせてよかったと思っているよ、という考え方もあるかもしれない。けれど、苦しみばかり、自分自身をごまかしてばかりで、本当のところ、一度だって一息つけたことすらなかったんじゃないか。一息ついたら、崩れ落ちてしまうから・・・。

私の言っていることは、おそらくかなり多くの人に当てはまる「当たり前」のことへの疑問なのだと思う。それで満足できないのがおかしいと言う人がいても驚かない。けれど私は、そういう悲しい人はいなくなってほしいと思う。

両親の人生の価値なんてことを、子どもがどうこう言うのは傲慢だと言う人もいても驚かない。そういう悲しい人も、豊かな未来ではいなくなっていてほしいと思う。私は両親にとっての両親の人生の価値を問いたいわけじゃないんだ。ただ、そこには本人たちですら気づかない根源的な豊かさについての問いを差し挟まないわけにはいかない。

子どもは、両親の人生を半分体験するのだ。その姿を見て、理解はできなくとも感じ取り、トレースしていく。パラレルワールドのようにそれを見ながら、違う選択を行う人もいるだろうし、幸福でも不幸でも、疑問を持たずに進む人もいるだろう。私は、確実に、両親のように進めば、辛い人生、感情に振り回されながら、つかの間の安堵を得るだけのために、息つく暇も無く、生活のために体を削る、余裕の無い人生が待っているか、もしくは自分を情けない役立たずだと内心では思いながら、日常生活での努力と、神との対話に安らぎを求めるか。

母のパターンに陥らないように抵抗を続けて来たが、結局、父のパターンにも進みかけている自分を発見するとは・・・

病いの人生には、何の価値もないのだろうか。現世では何も価値を得ることはないのだろうか。単なる障害で、単なるハンデで、損でしかなくて、うまく行けばその努力の大きさに称賛が大きくなる程度のものでしかないのだろうか。あるいは、カルマで業で罰で修行でしかないのか。それともこれは何かの間違いで、単なる心理的な未熟さによる精神の発達過程におけるもので、なにかの心理療法でよくなるものなのか。(この考え方が一番嫌いだ)

治ることはないにしても(難病なので治ったら奇跡だ)、自我を手放し、内なる自然の流れにゆだねることで、私の中で生まれて来てよかったと思える時間が増えればいいと思う。おそらくこの両親の間に生まれてこなければ、この第三の選択肢にたどり着くことはできなかったのかもしれない。

そして私は、奇跡が起こってほしいと願っている。

様々な感情に揺らされながらも、こうして心の底を覗き込んでいると、私はこの両親の間に似たような体質で他の人はあまり経験しない不幸な人生だからこその感性を見たからこそ、生まれてきてよかったと安心して思えるような日々を送って死んでいくことが、両親の人生にも価値をもたらすのだということが答えのように思えてくるのだ。

すべては愛だとはじめて言ってみる

私は言いたいことを言ってない。

人から色々言われたときに、自分が感じてることを表現できなくて、自信がなくて、すごく不愉快な気持ちになる。

押し付けられたように感じる。

本当は、それは私にとっては違うんだよって言いたいんだと思う。

一般的に流布されている考えではないから、説明もむずかしい。

特に、論理性や概念思考に慣れていない相手に対しては手段を失ってしまう。

もどかしい気持ちをいつも抱えていた。

私は、言いたいことを言っていない。伝えられていない。

そういうことだと気づいた。

 

けど、私が言いたいことは、私は自分でちょっとアタマがおかしいかな?と思う。普通じゃないのはわかる。オカルティックなフィーリングが実感としてあるということは、妄想かしらと思う。

信仰の自由の範囲かなとも思うけど、宗教は信じてないし。いや、濃厚なカトリックの家庭で育ったので、そこからやっと脱した感じだけど、やはり三つ子の魂百までというのか。

そういうことを勘案すると、信仰という言葉が客観的表現としては適切なのかもしれないけれど、私には事実のようにただそこにある。意識して信じてるわけでもない。ただ思い出すと安心する。

 

それは、すべては愛だということだ。

愛は光とも言える。闇や影をつくってしまう光ではなく、隅々まで照らす光。

すべては愛そのもの。悩むことも苦しむこともない。清らかな生命の流れ。

悩んだり苦しんだりは、そこから離れてしまうことで起こる。

愛から離れると恐れが起こる。

恐れは体に緊張をもたらす。自然な流れに反応できなくなってしまう。

 

私はずーっとこのことについて感じていたい。

できることなら、まわりの人と共有できたらなおしあわせ。

本当にしあわせなんだよ?この感覚をわかちあえるのは。

 

けれど、一歩誰かにこれを説明しようと思うと、やっぱアタマがおかしいかなとか考えてしまって、流れから離れてしまう。それが悲しい。

こんなことを言ったら、教祖だとか揶揄されて、疎まれるかなとか・・・。

それに、これがしあわせだよなんて、まわりの人が感じて寄ってくるようになるのはいやだなぁと思ってしまう。

私以外のところに原因を求めてほしい。

 

私自身は、この技法を体得されてる方に、響きを分けてもらっているというのにね・・・

私はケチなのかしらと思う。

いや、これは記憶がうっすらとあるんだな。

私が人々を信じてなかったからわるいのか。響きがすべて吸い取られてカラカラになってしまった。自分に優しくなかったということなのかなぁ。。

自分を信じてなかったというのもある。嘘八百の私だった。

だから、負けてるから、当時の自分自身のなかに矛盾点があって、ごまかして生きてたから、それだと響きの発信源にはなれないから、ひからびて当然だったのかな。。自分自身がこれでいいって思えないものを人にいいよって勧められないよね。

それに、私だけの力じゃ無理って思ってて、自分が発信源になるなんてなんかいやだった。誰かより優れていたりなんていやだし、言うこと聞かせたくなんてないし、それぞれの人がそれぞれに感じて、考えて、行動して、生命の流れにいる状態と私の流れの状態でぷつんとつながって、つながって、つながって・・・そういうのがいいと思ったんだ。

 

響きの技法は、やると本当に響きが高くなって、脳のエネルギーも溢れ出す。

安堵感、至福感からはじまって、空気の厚みが増して、本当に物理的につながってるのを感覚として感じられる。

けど、それは同時に欠乏感も生む気がする。現に私がそうだった。

それまでの生き方が生命の流れから離れているほどに、自分に優しくしてこなかったほどに、それがエゴを支える構造として重要な部分であるほどに、高い響きに合流が難しい。それに、生命の流れから構造的に離れてしまっているがゆえに、恒常的な渇きを感じている。甘いブドウを知ってしまったがゆえに、漠然とした渇きは、激しい渇きへと転じる。

エゴは渇く。打ちのめされる。葛藤に負ける。

 

本当のところ、私自身に関しては、エゴのつくり出した構造から脱するしかないと思う。

ほかの人については、わからない。簡単にできる人もいるだろうし、私のように見つけたものの何年も辛い渇望を抱き、葛藤に負け続けて体の病いとして追い込まれる人もいるかもしれない。

そこに対して、愛の方が絶対にいいよなんてことは言えないと思う。

現代社会において、適度な承認欲求と制御欲求を満たしながら、安全安心に生きる方が楽だから。そういう環境が叶っている人なら、響きを得やすいし、さらに頑張る必要も、影や闇の部分に触れる必要もなく、逃げ切ることができるかもしれない。

けれど、昼の部分しか知らずに生きている人たちは、自分たち自身が無意識に闇と影を追いやってることに気づいていない。気づかず闇を濃くして、たまに犯罪や病い、あるいは戦争に巻き込まれたりはしてしまうけど、確率的には低い。だから気づかないこと自体、悪いことかどうか私には判断できない。むしろ、気づくことすら必要ないのかもしれない。そういう方法以外で人間社会を最大限に安全安心に維持するのは難しく、個人の意思や努力なんて微々たるものにしかならないし、それを目指して徒党を組んだら組んだで、それはまた別の闇を生み出すだけの話だ。もし私が愛だ響きだと徒党を組み、人に強要したら、どうなるか考えればすぐにわかる。そういうことじゃないんだ。

真に個人的な意思と努力のみが、生命の流れを感じられるのだと思うし、そういう人同士で文化を創らないかぎり、現代社会システムの代替は不可能だと思う。

かつてはそのような文化もあったけれど、伝統として形だけ残っていることの方が多いかもしれない。現代では家庭で親の背中を見たり、生き方や人間とはこういうものだよと教わるその家族内のみで通じる原則としてのみ細々と残っているようなたぐいのものだ。

多くの人はそれがとても大切なものだと感じているけれど、どう維持していいのかわからず、こぼれ落ちて行くのを惜しむしかできないのだろう。

不満は感じても、生きては行けるのだから。