とりとめもなくあれこれと。自分のスタンスとか
今朝は何でだか知らないけど
経皮毒についてあれこれ記事を読んでました。
感想など。
最近はまとめられた情報とかも多くていいですね。
経皮毒については科学的根拠はなくて、元々の種本となった薬学博士による著作も、科学論文にはなっていないものだったと書かれてありました。
また様々な公表されているデータ及び物性を勘案して、科学的根拠はない言説だというのが、まとめられてました。
それと同時に、科学的根拠はあります!
というサイトも見つけました。
三重大学の坂下栄(医学博士)というもう亡くなられた方が、実験した結果を書かれていました。
ですが、当該サイトにはリソース提示もなく、まして実験結果のみでそれ以外のファクターについては示されておらず、なんとも中途半端。
本当に界面活性剤の影響なのか?それ以外の物質の影響はないのか?
何ゆえ合成が悪いのか?は知りたいところだったりします。
まぁ大概、何ゆえの説明が腑に落ちないことばかりですが…近視眼的と言いますか…
その点、まとめサイトでは分子の大きさであったり、食物との比較で問題のスケール感を提示しているのがいいですね。
そこに対する反駁を支持側にはしてもらいたいものです。
さて、そんなわけで支持側はリソース提示してないし、見つかんないだろうなぁと思いながらも、念のためCiNiiで著者名で検索したところ。
ありました!
いや、こういう案件で調べようとしても論文検索では発見できないことが多いです。
これは、実際は無い場合と、辿り着けない場合があると思ってます。研究機関名までしかない場合や、論文のタイトルが化学物質名でしか入ってないなんて場合だと辿り着けません。そんなに詳しくないんで。
なので、リソースの提示はきっちりしてほしいなぁと思うわけです。
で、あったのはよかったですが、さすがに取り寄せて読む気持ちにはなりませんでした。タイトルだけでお腹いっぱい。
どなたか読まれた方、情報アップしてくれませんかねぇ。
さて、なぜだか経皮毒について調べてしまった午前中。
翻ってこのブログは自己観察のためのものですので、その点について感じたことなど。
判断基準がマイノリティな自分
科学や論理性より和で判断する文化
論理的かつ感性に溢れた話が出来ないという孤独さが解消されることはなさそう
嫌われ者でもいいから、稼いで自由を謳歌して生きていきたい。
なんてことを思いました。
よくもあり、リスクでもある孤独というもの。
私が孤独である理由。
常識的なことをそれ本当?と思ってしまう。
女性の共通話題は、美容、恋愛、スイーツ、占いだと言った知人女子がいましたが、こと美容あたりは不可思議な言説も多いもの。
マユツバなことを言い出したらその人は信用しないようにしようと思います。
まして勧めてきたりしたらば、なおのことです。
だってその程度の判断力しかないということですから。
判断力というのは、総合的な能力で諸事に及びますので、仲良くできないわけです。
人を否定せず受け入れるのは大切なことだと少し前まで思っていましたが、今は全く間違っていたと思ってます。
しかし処世術としては、重要なポイントです。
本当に友達ならば、私もちゃんと自分の意見を主張せねばなりません。
しかし、世には私の主張は強すぎるようで、受けて立ってくれる友人がいない(遠方の友人らを除き)。ここにつきると思います。
だって女の会話は、ケアしあうことだけで、そこに事実やらは必要とされてないんですから。それがルールであってそれを破る方が悪いという図式になるんです。そしてそれを世間は擁護しますから。
めんどくさ。
逆に世間では知られていないことでも、リスクは回避します。
なので周囲にいる人たちとは、判断基準があいません。
逆に、それについてギャーギャー言う人といるのも疲れます。
日本人は情報に疎いーとか。啓蒙主義みたいな。
行き過ぎれば陰謀論とかになって、それは面白いこともあるけれど、本気になってる人には引きますよね。
どっちもどっち。
そういうスタンスって理解されにくいです。
あ、これが、つるむの嫌いなんで。って感じなんですかね。
そういう風に言う人たちって集団の中にいましたけど、なんでそんなことわざわざ言うんだろう?としかこれまで思ってこなかったです。
つるむの嫌いと言いながら、巻き込まれていく姿を見てきたので、あまのじゃく?と思ってました。
ただ、情報の正誤判断を慎重に行う。
それは友人であっても、ヒューリスティックに陥らないように。
けど、効率のためにはリスク勘案してヒューリスティックを使うこともあるよね的な。
そのことで低減する正確性については、互いに寛容に扱う。
というのが、理想の友人関係ですかねぇ。
そういう共通認識が持てる関係がいいです。
なんか昔から、少ないながら様々な種類の人と関わることが多くって。
どこに行っても合わない自分がいて、ずっと自分がおかしいのかな?と思って自分をおさめて生きてきたのですが、違うな、と。
ここから先の人生では、遠方にいる合うなぁとしみじみ思える人たちを大切にして生きていこうと思いました。
そうしたら、きっと周りにたくさん人がいても孤独なんて思うことも無くなるのかな。
これって自分が間違ってたんだなぁと思ってます。間違ってると思う箇所が間違ってたというか。
前述の共通認識というものが理解出来ない人も多々いました。
私にはその人たちの認識機能がどのように働いているのか、どうしても想像がつかないのですが。
これは知能ではなく、訓練だと思いますけどね。
事象や見解を中間領域に置いて意見を述べ合うという。
これを介したコミュニケーションは、本当にいいものだと思いますよ。
疲れたので、今日はこの辺で。