発達障害とコーピング
今朝目が覚めて
無理しない自分のあり方について
考えてみました。
ビックバンセオリーというドラマにハマって
シェルドンというキャラが好きになりました。
制作に、シェルドンはアスペか?という質問が寄せられた所、彼はシェルドニーなだけだと回答したんだとか。
シェルドニーとは、シェルドン的だという意味だそうです。
以前、発達障害の専門医にかかったことがあります。
ADHD傾向はあるけど、社会適応の範囲内で、病気とは言えないと。
頑張ってパンパンになってる感じを緩めるといい、ということで、コーピングを行い、普通に生きることができるようになりました。
コーピングというのは、他の人が普通のこととしてやってることをベンチマークして、そのように振る舞うという感じのことです。
ここで私は自分自身を失った気がします。
本当はそうしたくない、本当はただ人から嫌われて生きるのが怖すぎて、辛すぎて、いわば社会に暗黙のうちに脅されて選んだ行動習慣です。
だから、社会適応は出来たし、人から好かれて、昇進もしたけど、すべては嘘。
コーピングするまでの間にされた、冷たい仕打ちや意地悪は忘れられず、人間の二面性に怯えることになってしまいました。
ビックバンセオリーに話を戻すと、自分と似ている人たちがたくさんいて、もめつつも仲良く暮らしていて、幸せな気持ちになれたんです。
困ったところはありつつも、特にシェルドンはそうですが、嫌われつつも、自分の幸福のために簡単には主義を曲げずにキュートに生きている。
私も、そういう生き方もできるんだ、もしあの時、もっと子どもの頃にも、貫き通して生きることも出来たんだと思えたんです。
だから、もう少し自分のありのままの感覚を信じてみようと。
社交的に振舞っているけど、本当はじっと黙って見てる方が楽だと思っていることとか。
人と関わっても、一時的な安心感はあるけれど、それは自分が社会適応できてるかというチェックをクリアしたということだけで、真の幸福感はないということとか。
もちろん、仲間と思える人たちとは真の幸福を感じてますよ。
遠くにいる人たちが多くてさみしいですけど、それも自分が望んだ状況なのかもしれないです。
コーピングの自分がぶれてしまうから。
理解してもらえないのが、ずっと悲しかった。
でも理解してもらうために、生きるのはもうやめます。
その合間に立ち昇ってくるものを生きたい。
まだそれがどんなものかつかめていないけれど。
今私のかかっている主治医は、腸の症状が発達障害につながってると考えていて、私もこれまでの経過と照らし合わせてそうだろうなと感じています。
なので、精神科にいくつもりはありません。
そういう障害を取り払ったところに残っているものが、自閉的だったり発達障害的だったとしても、それは私自身の生命力につながるものとして、大切に生きていこうと思います。