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認知療法への怒り

私は認知療法は嫌いだ。

いや、認知療法だけでなく、それ以外の心理系カウンセリングでよかった試しがない。

もちろん協力的な態度で、治ると思わなきゃ効果もでないよねと思ってやってきた。けど、人間としての底が浅い人間たちに出会ったって、残念な気持ちにしかならない。

特に最近、認知療法がいいと言ってくる人がいて、嫌だって話してるのに、忘れて何ヶ月か後にはまたいいんだよねと言ってくる。うるさい。

勧めてるわけじゃないんですよ、と言い訳するが、その人はいい人たちで、心から改善を願ってくれているのだろうけれど、果たしてそれは、どこへ向かっての改善なのか?

「あなたの幸せと感じるところ」と言うが、本当にそうだろうか?

あなた方は本当に相手の自由を願っていますか?その制限されまくった、制限を意識下に埋め込んだ心で?そんなことができますか?心配するふりをして、相手をコントロールしようとしていませんか?無意識だから罪はない?はいはい。そこまで責任持てないよ?はいはい。そうですよね。

社会に出て働けないことを「障がい」と見なすこと自体が、産業社会という単なる一形態への適合が是という傲慢だと思う。

傲慢に人を押さえつけて働くことが「強い」のですか?

そういうパワーのやりとりに疲れたんです。心が限界なんです。体がボロボロなんです。

私は「認知の歪み」という言い方が嫌いだ。産業社会側に居れば、確かにそう見える。けどそこには正してやろうという傲慢が透けて見えてくる。私自身が両方を経験して、歪みなんて言うなんて、どんなに傲慢だったか後悔してる。

歪んでるのはあなたじゃないってどうしたらわかるんですか?

あなた方は、要はメインストリームに乗ってるっていうだけでしょう?

やりたいこととか方向性はわかるけど、その傲慢さをどうにかしてから来てくれませんか?

その傲慢さが嫌で社会で働くのが嫌になってるんですから。

え?歪んでる方がおかしいっていうんですか?あなた方が正しいんですか?

そう感じてること自体が歪んでるって気づきませんか?矛盾してますよね?歪んでる人が相手を歪んでると導く。社会や世論という権威を盾に正義をふりかざす。

結局、患者のことを信頼してないし、自由にしてもない。

それに、あなた方のやり方を進めていくと、感性からの乖離が起こりますよ。

社会で働くには、感性は邪魔なことが多いですからね。

生命に反した行いばかり。それが出来る人の方が優秀ですもん。

だから一見、短期的には改善されますよね。思考でだまされて、その魔法が消えない限り。その魔法を、そしてそれを保持させる社会構造やコミュニティから仲間とされて受けられるメリット(安定した収入、承認欲求の充足)を、違うとわかってしまったら、魔法は消えるんです。そして怒りがわいてくるんです。そしてそんなものでしかないのに職場側からすればいいものとして評価してる愚に断絶を感じるんです。

いいですか、感性をねじ曲げると、他の病気になりますよ。感性に気づかない限り、生命と断絶したままの苦しみにあえぐことになりますよ。認知療法の関係者からすれば、体の病気で死んだり不幸になるのは、治療が終わったあとなんで知らないんですか。

ほんと、感性を押さえつける風潮が進んで、どんどん優しくない人ばかり増えて、ここ数年で機械みたいなやりとりが本当に増えました。そうしないと自分を守れないんですもんね。

それに、そういうのに耐えられる体を日本人は特性として持っていると思います。無意識で非合理矛盾を吹き飛ばした結論にたどり着けますもん。そりゃいじめも横行しますよ。いじめがなかったとしても、ことなかれ主義なだけで、これまで通りが一番っていうんでイノベーションも起きないんですよ。びびりなの。

私は無理です。論理矛盾への拒否感が優先されるんです。男が上だとか、女は下で仕方が無いとか、耐えればいいとか、そういう非合理なのが行われて、昔はそういう耐え忍べるのが大人だと思って、反発を感じたら自分が悪いって思ってたけど、絶対違います。自分が被害をうけて、それでも飲み込める人たちの方が気持ち悪いです。

 

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認知療法に関しては、一個人の感想です。すべてを否定するつもりはありません。誰かを傷つけようとも思っていません。何かに貢献するつもりもありません。不愉快な気持ちになった方は、なぜ不愉快になったのかを自問して頂く機会となれば幸いです。認知療法的に言えば、私はあなたを傷つけたり不快にさせようとしてもいませんよ。あなたのことなんて認識してませんし。けれどあなたがもし怒るなら、それは歪みですか?それともあなたの感性が何かを訴えかけているのでしょうか?

正直、こんな書き方で、こんなこと書いても断絶を深めるばかりで、なんのいいこともない、そう思って今まで正反合の合の立場ばかりで生きようとしてきました。けど、正を正として実感し表現することが私には欠けていたなと感じたのでその実践を行おうと方向転換してみた次第です。すべてを手放すために。

すべては善も悪もなく、ただ生命の流れの中にいるか否か。

現代の日本にある、誰かを傷つけてしまうかもしれないから意見が言いにくいという環境は閉塞感が強いですね。夜警のような方々がいて、自分の怒りのためか公共心か、人々に恐怖を与えていますけど、けれどそれもひとつひとつは海面に生ずる波頭のように感じます。ありがとうございます。