左眼

昨日、寝ようと思って寝室に行った。

それは毎日繰り返される日常。

けれどその日、戸を閉めると部屋は暗く
目を開けているのかわからなくなった。

暗闇を見つめていると五感が呼吸しだす

「自分」

この感覚優位の状態は
自分という意識のひとつの側面だ。



私は左が利き目だ。
どちらかの眼を隠した時に視界が変わらない方が利き目だ。

だけれど今はどうも右眼が優位のように感じる。
あえて左眼を弱めている、使っていない、忘れてしまっていた、
そんなような気がする。


ずっと、考えようとしても触れられない
本当に好きなものを避けるクセ

「では、それは避けましょう」
好きだなと思うと、そこはタブーになる。

体の使い方も何か同じようなことかもしれない。
本来の自然体を避けて
まるで自ら枷を嵌めているみたいに。

私の本当に好きなものは何か
触れないよう避けてしまっているのは
一体なんだろうか。

最近、このことをよく考えている。

激しい感情の発露は、その余波。
ひとつ越えれば、ひとつ解除されて
目的の宝箱に一歩ずつ近づいてる感覚。

多分、最近になって左眼の感覚が解除されたんだと思う。

それで暗闇の中で、左眼を使って見ている自分を感じることが出来た。

両眼で見る。

それは即ちバランスを取り戻すということ。

肉体の感覚、インプットが能力や意識に及ぼす影響は大きい。



今日一日で感じたのは、道を渡る時などしっかり見たい場合は右眼に戻るらしい。

絵として見る時は左眼も使って見ているようだ。


そして、滅多に絵を描かないが、
今は描かねばと思っている。

まるで謎解き、クエストのようだが
ほんの少しの印象やイメージ、キーワードをあわせて
パズルピースの絵を読み解いていく


そこに出てくる葛藤は
右眼優位の私で働いていること。
ニセモノの自分と感じているらしい。

かと言って、絵で食べていくとか
そういうことを考えると
経済的には成り立たないだろうなと思う

それに売り物を作りたい訳ではないのだと思う

誰かのために描くのではなく
自分のためだけに
「私はここにこうしています!」
そう言いたいために描くのだと思う…

結果的に多くの人の心に
同じ光景として結びつけば
きっと幸福だろう。

私は生きていてよかったと
きっと思えるのだろう。

私は「私」だったのだと、
マニュアルもコマーシャリズム
介在しない「私」だったのだと。

そして一人の人間だったのだと…
素朴で、生身で、人と人として…
外見や障害や病で判断されることのない


「渇き」


生命に満ちた泉の辺
生命のままの私たち
私はそういうものを求めている気がする。

そして、今の仕事や職場がどうしてそこから乖離しているのか
これもまた解除されるのを待つピースの一片のようだ。