思い出のレストラン

思い出のレストランかぁ。お題を見ていたら書きたくなった。

 

私にとっては、近所にあったファミレスが思い出深い。

そんなにチェーンのレストランなんてない時代だ。

高校生くらいまで、そこがチェーン店なんて知らなかった。

 

記憶ではレンガタイルと赤茶の屋根、窓から光があふれて輝いてる。

そのファミレスを思い出すといつもそんなイメージが舞う。

 

日曜のミサに行った帰りに、両親と3人でお昼を食べて帰る。

父の運転する車で向かい、私はもちろんお子様ランチだ。

 

母方の祖父母の家で両親も含めて5人暮らしで、

祖父母は高齢でもう出歩くことはなかった。

そんな中で外食はミサの帰りの日曜日くらいのものだった。

切り詰めて連れて行ってくれたことは、今となれば容易に想像がつく。

 

こうして色々と思い出していると、

何かこう、感情と記憶が交錯してくる。

 

切り詰めていた割には、小学生の頃には贅沢していたな・・・?あれ?

 

おそらく、うちが貧乏だったのは小学生に上がる前くらいまで、

幼稚園の途中あたりから母は保険の外交員になった。

そこから、母は男性並みに稼ぐようになり、父との関係が少しおかしくなっていた。

 

中学生くらいだったか、他県にある寮制のミッション校へ行かないかと言われたことを思い出した。

小学校では上手く友達を作れず、辛い日々だった。

 

中学生の頃は、自分の負の部分を理性で押し殺しながらも

友達を作り、やっと楽になってきた頃だった。

だから、母の申し出は断ったけれど、母は何か後悔してくれていたんだろうか。

 

そういえば、確かその頃くらいだ。

飲み歩いたり、色んなあれこれがあったようだ。

体の関係はなかったようだが、言い寄られていたりしたらしい。

そして、気持ちとして好きになったりしていたらしい。

 

父と母は、ドライブ中も夕食中も、年がら年中ずっと二人で話をしていた。

なのに、その頃の母は「お父さんの話は中身がないのでつまらない」と言い、

「今好きな人は、頭がいい。話したいことが話せる。」と言っていた。

父は、誰々さんがどうしたとか、そういう話をよくしていたらしく

母は、政治や経済などの話もしたかったようだ。

 

カトリックの我が家では、離婚という選択肢はどうもなかったようで、

父は「好きな人がたくさんおっていいのう」と言っていたらしい。

母は精神が参っていたのだろう。他にも色々なことがあった。

 

母は、私にこうこぼした。

「若い頃は自分のすべては理性で保てると思っていた。

 年を取ればさらに理性は強く成長して、もっと楽に保てるようになるのだろうと。

 けれど、現実は逆だった。

 年を重ねる程に、理性は弱まって、理性ではどうにもならなくなった。」

 

そんな母だが、父が亡くなる枕元で「生まれ変わってもまた一緒になりたい」と言っていた。

夫婦とは、わからないものだ。

そして父が亡くなった後は、別の手の届かぬ人に恋焦がれて苦しむという・・・

自分で認めることすら出来ない葛藤と向き合えずに余ったエネルギーを、

どう発散していいのかわからない人だったと思う。

苦しむのが好きなんじゃないかと疑った程だ。

(そう考えると、父は祈るだけの人だったという印象だ・・・)

 

中学生の頃の母について、嫌悪感をおぼえたことはないつもりだった。

けれど、最近になって、強迫観念になっている事に気がついた。

 

ちゃんと認識して分離できれば悪いようにはならない。

今はここに書いて振り返れるくらい落ち着いているが、

言葉にならない漠然としたイメージとしてやってくると、

まるで自分に起こる未来のように思えて、恐ろしくて仕方がなかった。

 

そして、私は母の姿だけでなく、父の姿からも、たくさんのことを学んだのだ。

葛藤に向き合うこと、祈るだけ手放し続けるだけでいいのかという疑問。

 

前者は答えは出た。後者はまだわからない。