自分で考える
今週のお題「これって私だけ?」
書いてみようとすると、なかなか深いお題だなぁと。
ここしばらくの間、この思考パターンで考えたことがない
なんてことに気がついて、なかなかおもしろいではないかと。
「私だけ?」という思考には、共感を得たいという心情がある。
私の場合は、「私はこうだな。他の人はどう感じてるんだろう?」
というパターンで物事を知りたいと思うことが多い。
しかしこうやって振り返ると「私だけじゃないよね、間違ってないよね」と
同意というか、他者からの肯定を渇望していた頃の心情がわいてきた。
他者から肯定されればその心情は持っていてもいいし、
そうでなければ自分はおかしいのだと思っていた。
今の自分と過去の自分と、どちらがよくてということを
このブログでは取り扱わない。どちらもいいのだというスタンスだ。
時に、正直に片方を徹底的に貶めることもあるが、
それも正直な葛藤を見つめる過程と思って遠慮なく書いている。
さて、過去の私の場合の「これって私だけ?」は、
その時の必要として生じていたものだと今ならわかる。
そんな考え方したってくだらないとずっと思ってきたけれど、
自分とは考え方が違う環境、それ以上意見すると生意気と取られて不評を買う、
女子はひとりでは何も出来なくて当たり前というような
そんな環境にいた時のサバイバル術だったような気がする。
数年前に異動して、それから本当に恵まれた立場になったのだと再認識。
そもそも子どもの頃から同調圧力が嫌いだったし、
同調圧力を使う側に回るのも本当に嫌だった。
だから、それをサバイバル術として使う自分と葛藤してきた。
これって私だけ?と考えたところで、人に求めたところで
なーんにも解決しないのだ。
だけれども、環境が変わったにも関わらず習い性としてなぜか出てくる。
「一緒だよね~わいわい」という傷のなめあい効果しか無いにも関わらず。
うーむ。結局、女子はどれだけ自立していても、そういうなめあいも
たまには無いことには絆が保てない、というのを無意識に感じ、
浮かないように、これまた無意識にやってしまうということなんだろうか。
女子の呪縛(自己呪縛?)?。
人間は進化の過程で、毛づくろいのかわりに会話を使うようになったらしい。
関係構築の際には ほぼ100%、毛づくろい的なコミュニケーションしか
役に立たないものだ。
ロジカルな思考とそれを会話形式の言葉にしたものなんて何の効果もない。
いや、むしろマイナスの効果しか生まないことの方が多そうだ。
くだらない自分にはやっぱり吐き気がするけれど
たぶんこれは私の影になっている部分。
無理やりプラスの理由をつけるより、影は影として存在する方がいいと思う。
まずはその存在を認めることからはじめて・・・うーむ。
すっきりした答えが出ないので、もっとしっかり向き合って葛藤し続けよう。
なんで「女性だと社会と葛藤するのか?」というのも考えたいのだけど
そのあたりともつながっていそう。
このところ期せずして女性と社会についての記事が多くなっているけれど
自分の価値観と向き合った時に、避けては通れないものだったんだろうな。
世の言説に惑わされず、なんとなくそう感じるから なんて罠に陥らず
自分は何を感じていて、ちゃんと事実にもとづいて考えているか
これからもしっかり向き合っていきたいと思う。
願わくば、男性も女性も賢さもくだらなさも両方を自在に出せる世界になるように。
そうしたら少しは住みよい場所と思えるかもしれないから。