受容的態度

今朝のこと

 

やっぱり会社の同僚がストレスだ!

繊細さがなさすぎる!!

 

と思って、もやもやしつつ起きた。

 

そしたらば、ブクマにそれ関連の記事が。

わかるーと思いつつ、もやもやもやもや。

 

もやったのは、そう、セクハラについて。

双方の価値観がズレすぎていて、これまで自分をごまかしてきたけど

自分に正直になるとほんとしんどい。

 

 

セクハラについての価値観が違いすぎると思う。

 

昔、男性諸氏に受容しやすいように説明はして、

目からウロコで共感してもらったけれども、まだ信用してない自分がいる。

 

女性陣には説明していない。信用していないとまではいかないけれど

勘違いな対応されたりして(モテるからとかいうミスリードや、

社会人としてそれくらい気にしないとか、作戦ミスだとかね)、

女性的な賢さで女が女を追い込んでどうする!なことになりかねないわけで。

 

痛みを痛みとして受け入れられていない女の人は多いと思う。

だから、相手の痛みも痛みとして共感できないのだ。

誰も傷まなくて済む方向に進んでいくことが出来ない。

それくらい日常に痛みの原因は転がっている。

 

痛みは、文化摩擦のようなものだと思う。

男性社会の価値観との摩擦があるから痛みが生じる。

 

問題は、その摩擦で男性社会側は一切変わらず、

そこに関わる人間だけが痛みを負って変形してしまうということ。

どういう人間が痛みを感じるかといえば、価値観の距離が広い人ほど。

だから女性もそうだが、男性も価値観の距離によっては変形してしまう。

むしろ変形していない男性もいないのではないか。

 

この目に見えない「男性社会の価値観」というものは

「ぶきみな化け物」なのかもしれない。

 

誰か個人が作り上げたわけでもなく、無意識の産物で

なんとなくその方が都合がいいという中心的人物群があって

その人物らも多少の不便は感じつつも利益を享受する一番手にいて

搾取される葛藤を抱えながらも、自らが生き残りが補償されることで

取り込まれて身動きが出来なくなっている、そんなものかもしれない。

「ぶきみな化け物」に搾取されていること自体、気づいていない人も多いだろう。

上手くつきあっていると思っている人もいるかもしれない。

けれど、多かれ少なかれ葛藤を無視することで、時限爆弾を抱えてしまう。

 

ああこれはアニメや漫画の世界でよく描かれる世界観だ。

 

フランスで起きた事件を見ていて感じたのは、

移民の痛みをフランス社会側が受容しなかったので

強制的に痛みを味わわせようという衝動が働いたのかもということだ。

 

その時、フランス社会の中枢に近い人ほど

葛藤を感じなかったり、問題はあっても対処できなくて放置したりして

つけが回ってきた、そういうことかもしれない。

 

けれど、やっぱり葛藤には触れない方が安全だということだ

狙われるのは葛藤に下手に触れる人だから。

 

 

問題があると思うか、ないと思うか。スタンスとして色々あるだろう。

満たされている自分を認識することでそちらへ方向付けた方が

問題だらけの社会に生きるよりは、生きやすくなるだろう。

 

そして、どこかで葛藤が火をふいても

ああ、火をふいたなと生きるのだ。火の粉がかかれば一目散に逃げるべし。

 

けれど、異国に行って痛みが生じない文化もあるわけだ。

人権という文化は、なかなかに希少だったりするのだから。

 

いや、たまたま日本国内だってもっとフラットな価値観の組織もあったりするだろう。

それは先人がたゆまぬ努力で形成した価値観のおかげだったりもするし、

偶発的にそういう価値観を持ち寄った仲間のおかげだったりもするだろう。

 

 

今日も答えは出そうにない。

痛みもこみあげては、出口を見つけられないまま。

 

けれど唯一、すべてのことに対して、聞く耳を持ち、率直に感じていることを伝える

受容的態度を持つことだけは助けになるんじゃないだろうかと思っている。

 

私はながらく、この伝えるという行為をしないで来た。

こうしてブログに書き出して、自己を見つめる作業をしていると

ほんのかすかな違いに気づいたりもする。

 

重要なのは、忘れてしまわないことだ。

何かが起きたとき、否定したり憤ったりせずに、興味を失わないことだと思う。

理解と共感と優しさで。

 

ジェーン・グドールの言った

「HOPE LOVE UNDERSTANDING」の意味が少しだけわかった気がした。