寒い。
今年もこの季節がやってきた。
寒い
頭痛い
集中力ない
動けない
眠い
寝ると夜寝れない
スマホならできる
目が疲れた
生産性ないことばかり空しい
ひま
無気力
てなことばかりぐるぐるしながら
結局寒いんですよね。
こうして書いてみると、目が疲れたなら休ませろと思いました。
エネルギーが落ちてると、体が冷えるし、冷えてると動けないので、さらに冷える。
やりたくないことを認めて受け入れる。
別に生産性のあることをやっちゃいけないわけじゃないんですよね。何かこう、それをやると休まらない感じがして、避けてるつもりなんです。
でも避けてるのに休まらない。
やり切っても、次から次に来るので休まらない。
どうせ外出はしきらないわけで、結局完結できないと予測してしまってやりきらない。
ばかばかしいけど、こうして書き出すまで、書いている今もなお、何か向き合いたくないものがあることに気がつきました。
何に向き合いたくないのか?
ひとつのことも満足にできない自分に出会うのが怖いのかもしれません。
闘病とは、自己有能感との闘いだと思います。
少し前までは出来ていたことや、頑張れば出来ていたことが出来なくなっている自分を見つけるかもしれない。
自立した人間だったのに、だからこそ自由を楽しめていたのに、人の手を煩わせる私は、何を差し出せば自由を許してもらえるのか。
もう二度と自由を求めることは倫理上許されないのかもしれない。
奴隷のような何かねじ曲がってしまうような、ねじ曲げられていか過去からやっとここまで逃れてきたというのに、子どもだから、不完全だからと、罵られ奪われてきたものを、やっと取り戻しかけていたというのに。
しつけだとか、礼儀だとか、常識だとか、あれこれ押しつけて、コントロールしようとしてくる人たちから、やっと逃げられたと思っていたのに。
バレたくない、私の障害はバレたくない。
バレたら欠陥品扱いされて、迷惑がられて、一人の人間として信用してもらうこともできずに、嫌われものになってしまう。
いつも私はそのことに怯えてきた。
嫌われると配給がまわってこず、飢えて死んでしまう。
食糧を分けてもらいたかったら、差し出せと言われる。周りはみんな奴隷のような生き方をしてる。
独裁者が悪いんじゃない、安易に流れ独裁者が行うことを擁護する皆んなが悪いんじゃないか。けれど皆んなは知らない分からない。いつも話が通じない。理解したとしても、これ以外に生きるすべはあるの?とそればっかりだ。
寒くなるとそういうことを思い出す。
とても悲しい。