すべては愛だとはじめて言ってみる

私は言いたいことを言ってない。

人から色々言われたときに、自分が感じてることを表現できなくて、自信がなくて、すごく不愉快な気持ちになる。

押し付けられたように感じる。

本当は、それは私にとっては違うんだよって言いたいんだと思う。

一般的に流布されている考えではないから、説明もむずかしい。

特に、論理性や概念思考に慣れていない相手に対しては手段を失ってしまう。

もどかしい気持ちをいつも抱えていた。

私は、言いたいことを言っていない。伝えられていない。

そういうことだと気づいた。

 

けど、私が言いたいことは、私は自分でちょっとアタマがおかしいかな?と思う。普通じゃないのはわかる。オカルティックなフィーリングが実感としてあるということは、妄想かしらと思う。

信仰の自由の範囲かなとも思うけど、宗教は信じてないし。いや、濃厚なカトリックの家庭で育ったので、そこからやっと脱した感じだけど、やはり三つ子の魂百までというのか。

そういうことを勘案すると、信仰という言葉が客観的表現としては適切なのかもしれないけれど、私には事実のようにただそこにある。意識して信じてるわけでもない。ただ思い出すと安心する。

 

それは、すべては愛だということだ。

愛は光とも言える。闇や影をつくってしまう光ではなく、隅々まで照らす光。

すべては愛そのもの。悩むことも苦しむこともない。清らかな生命の流れ。

悩んだり苦しんだりは、そこから離れてしまうことで起こる。

愛から離れると恐れが起こる。

恐れは体に緊張をもたらす。自然な流れに反応できなくなってしまう。

 

私はずーっとこのことについて感じていたい。

できることなら、まわりの人と共有できたらなおしあわせ。

本当にしあわせなんだよ?この感覚をわかちあえるのは。

 

けれど、一歩誰かにこれを説明しようと思うと、やっぱアタマがおかしいかなとか考えてしまって、流れから離れてしまう。それが悲しい。

こんなことを言ったら、教祖だとか揶揄されて、疎まれるかなとか・・・。

それに、これがしあわせだよなんて、まわりの人が感じて寄ってくるようになるのはいやだなぁと思ってしまう。

私以外のところに原因を求めてほしい。

 

私自身は、この技法を体得されてる方に、響きを分けてもらっているというのにね・・・

私はケチなのかしらと思う。

いや、これは記憶がうっすらとあるんだな。

私が人々を信じてなかったからわるいのか。響きがすべて吸い取られてカラカラになってしまった。自分に優しくなかったということなのかなぁ。。

自分を信じてなかったというのもある。嘘八百の私だった。

だから、負けてるから、当時の自分自身のなかに矛盾点があって、ごまかして生きてたから、それだと響きの発信源にはなれないから、ひからびて当然だったのかな。。自分自身がこれでいいって思えないものを人にいいよって勧められないよね。

それに、私だけの力じゃ無理って思ってて、自分が発信源になるなんてなんかいやだった。誰かより優れていたりなんていやだし、言うこと聞かせたくなんてないし、それぞれの人がそれぞれに感じて、考えて、行動して、生命の流れにいる状態と私の流れの状態でぷつんとつながって、つながって、つながって・・・そういうのがいいと思ったんだ。

 

響きの技法は、やると本当に響きが高くなって、脳のエネルギーも溢れ出す。

安堵感、至福感からはじまって、空気の厚みが増して、本当に物理的につながってるのを感覚として感じられる。

けど、それは同時に欠乏感も生む気がする。現に私がそうだった。

それまでの生き方が生命の流れから離れているほどに、自分に優しくしてこなかったほどに、それがエゴを支える構造として重要な部分であるほどに、高い響きに合流が難しい。それに、生命の流れから構造的に離れてしまっているがゆえに、恒常的な渇きを感じている。甘いブドウを知ってしまったがゆえに、漠然とした渇きは、激しい渇きへと転じる。

エゴは渇く。打ちのめされる。葛藤に負ける。

 

本当のところ、私自身に関しては、エゴのつくり出した構造から脱するしかないと思う。

ほかの人については、わからない。簡単にできる人もいるだろうし、私のように見つけたものの何年も辛い渇望を抱き、葛藤に負け続けて体の病いとして追い込まれる人もいるかもしれない。

そこに対して、愛の方が絶対にいいよなんてことは言えないと思う。

現代社会において、適度な承認欲求と制御欲求を満たしながら、安全安心に生きる方が楽だから。そういう環境が叶っている人なら、響きを得やすいし、さらに頑張る必要も、影や闇の部分に触れる必要もなく、逃げ切ることができるかもしれない。

けれど、昼の部分しか知らずに生きている人たちは、自分たち自身が無意識に闇と影を追いやってることに気づいていない。気づかず闇を濃くして、たまに犯罪や病い、あるいは戦争に巻き込まれたりはしてしまうけど、確率的には低い。だから気づかないこと自体、悪いことかどうか私には判断できない。むしろ、気づくことすら必要ないのかもしれない。そういう方法以外で人間社会を最大限に安全安心に維持するのは難しく、個人の意思や努力なんて微々たるものにしかならないし、それを目指して徒党を組んだら組んだで、それはまた別の闇を生み出すだけの話だ。もし私が愛だ響きだと徒党を組み、人に強要したら、どうなるか考えればすぐにわかる。そういうことじゃないんだ。

真に個人的な意思と努力のみが、生命の流れを感じられるのだと思うし、そういう人同士で文化を創らないかぎり、現代社会システムの代替は不可能だと思う。

かつてはそのような文化もあったけれど、伝統として形だけ残っていることの方が多いかもしれない。現代では家庭で親の背中を見たり、生き方や人間とはこういうものだよと教わるその家族内のみで通じる原則としてのみ細々と残っているようなたぐいのものだ。

多くの人はそれがとても大切なものだと感じているけれど、どう維持していいのかわからず、こぼれ落ちて行くのを惜しむしかできないのだろう。

不満は感じても、生きては行けるのだから。