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ストレスを感じるから相手を助けたいと思うのは幸せにつながっているのか?

どうでもいいことを書きたくなる。

その衝動をそのまま認めよう。

 

自分にゆるすことだ。

ゆるせば余白が生まれ、そこで本来の役に立つ行動へとシフトすることも選べるようになる。

 

今、私には解決しなければならない課題がある。

 

昨夜、昔の知り合いからメールが来た。

その人はとある事故を起こして職場を去った。

心残りも数知れなかったのだろう、その人は元職場に何度もコンタクトをとろうとし続けていた。脇はあまかったが悪意ではなく不運と呼べるような事故だったことから、元職場以外の人間は退職後もその人を援助していた。しかし、元の職場ではその心残りを何とかしようとするその人との関わりに戸惑っていた。

その人が必死になって立ち上げた企画も、何もかも、その人がいるから生じていた仕事で、いなければいないで、誰かが質はともあれそれなりに続けるのだ。

いくら詳しいからと言って、実働できないところからあれこれ言われるのは、担当にとっては負担なだけだとその人はわからなかったらしい。

私はそのことをむなしいとも思わない。それで組織が廻って皆がご飯を食べれるなら、そんないい組織はないとも思う。

私自身の過去もそうだ。誰もまとめられなかった企画を出したが、結局私がいなくなった後は、誰かがどうにかつないでくれているのか、それとも無くなったか。誰か個人の能力が高くて始まる仕事というのは、構造的に弱いのだと思う。それはもちろん、企画という仕事柄なのかもしれないけれど。

 

「誰かを助ける」のに理由はいらない(哺乳類なら):研究結果|WIRED.jp

 ラットが二匹。片方が閉じ込められているとき、もう片方は閉じ込められている仲間を見て、ストレスを感じて助け出そうとする。しかし、薬剤でストレスを緩和すると、助け出す行動は見られなくなる。

 

私は職場で、ものすごいストレスを感じていた。

それは、私自身のストレスというよりは、周囲の人々が意識の檻に閉じ込められているように感じてのストレスだった。救い出したいという傲慢な思いに駆られていた。

手放せば、もっと自由になれるのに。

そう思う自分の方が手放せてないではないかと、私は沈黙し続けた。

ストレスを感じながら。

 

勘違いだろうか?

その知り合いのメールに書かれた単語、フレーズは、常識的なようでいて、とても狭苦しく、悔恨と、罪悪感と、絞り出すような善意のように感じられた。

 

ストレスがあるから、ストレスがあるように見える。

ただそれだけなのかもしれない。

 

私はそのメールに、当時の感謝の気持ちと、その人の幸福を願って、私が見ている風景と、私の絞り出した善意を返したくなった。

 

私は、その人に大変感謝していた。

しかし、もう何年も前のことでの罪悪感や後悔など、私には必要なかった。

それに、そういう思いを引きずっている人と関わることは、今の私には重苦しくありがたくなかった。

 

 ストレスのある人は、ストレスを感じていそうな人間を救えるのだろうか?

救うとまではいかなくても、何かの役に立つのだろうか?

 

ストレスが無い状態で、相手をゆるすことでしか、救われない気がする。

 

私はその人に何と返すべきなんだろうか。

どうか、自由になってください。

あなたが自由であれば、私は幸せです。

 

私は誰がどうであれ、もう自由になると決めたんです。

あなたのよな縛られた人ばかりの職場には、もう戻りません。

 

どうかどうかお元気で。

 

唯一言えることは、そのメールのおかげで私は自分の檻を開ける機会を得たということだ。

 

私は、私の感じ方はおかしくない。

けれど、そこからも自由である方がいい。

ストレスを感じることを自分にゆるそう。