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自分の頭で考える

10ヶ月ぶりの更新。私は知らないことばかりだ。私は何もわかっていなかった。

今日、書きたいのは「市場システム*1への違和感」についてだ。

 

4月頃に放映された、来日したムヒカ元大統領の番組を昨日になってやっと見た。

彼の思想の全容は知らないが番組のコメントから捉えるに「市場というシステムは、もう長年海洋汚染について懸念されていても一向に改善することはない、自分たちが気ままに生きる大切な時間を売り渡してしまう、人の時間を盗むようになる(経営者の暗喩か)」と感じているようだ。しかしその番組では「働くことは美徳(本人も楽しく働いている)という日本という国もあると知ってもらえたのでは」とまとめられていた。私の中で違和感*2が生じた。

いや、そもそもずっと違和感があった。それを思い出した。人は、内側*3に取り込まれているとそれが何かわからないまま生きてしまうらしい。

 

考えるには、ぼんやりとしたイメージや感覚を言葉や構図として捉える必要がある。そのためには、対象から自分をひきはがして、余白(スペース)をつくる必要がある。そうしてできたスペースを広げるためか、吐き出してすっきりさせるためか、自分の考えをめちゃくちゃでもいいから書き出してみることが、必要なのではないかと思っている。

ゆえにこの場は、私論と試論の集積になる。

 

十代の頃、職業選択について考えていて、ファッションやデザイン、アートに興味が合ったので、そういう道も考えたのだが、あまりの商業主義に私には出来ないと思った。医療や科学系にしても、人間観があまりにも自分の実感とは違っていた。

結局、社会系学部を選び進学した。そしてそこでも、科学に対する違和感は続いたが、その違和感を屈従させる形でその先へと進んで来た。そう、自分は幼いのだと、自分で自分に言い聞かせて生きてきたのだ。

そうこうするうちに、ああ、社会人と自称する人々は、この過程を経てきたのかと、心の半分では納得し、それに長けた自分を誇らしくも思い、リア充の心地よさも味わった。葛藤の日々だった青春時代を思うと、少し遅くはあるが、そのはなやかさは、確かに人々を惹きよせるだけの魅力があると思った。

しかし、心の半分では、ひどい孤独感に苛まれるようになった。

おそらく多くの社会的成功を収めた作家やその他の職業人は、「いわゆる青春」自体が持つ「魅力」にコンプレックスを抱きながらも、自らがそれを獲得した、あるいは代替の物を手に入れた過程を良いものとして後進に伝えて来たのだろう。それは価値のあるものだと。

それらは、多くの人々が追い求めるからこそ、価値があるわけで。「市場」とはまさにそのあらわれであるし、実体のないものだ。青春時代の輝きというのは、誰にでも平等に与えられているものではなく、何かこう、「市場」と近い精神文化があるような気がしている。

 

私がここで言いたいのは、なにかおかしいぞ、という感覚だ。それと同時に、市場を悪とするのもおかしいぞという感覚だ。単純ではない。商業主義の社会に馴染むことを追い求めるあいだ成長してきたと思っていたが、違ったのかもしれない。私は幼くもあったけれど、根底で感じていた違和感は、幼さゆえ、モノを知らぬがゆえの勘違いなどではなかったのではないか。肉体や精神を病んだり、引きこもっていたりする人々は、ある種の正しさをもっているのではないか。

 

もっと自分を強く信じて、その違和感の正体を、古今東西の人々の考察を知り、迫ればよかった。そしてその結果に従って生きるということをすればよかった。そう後悔している。

 

この世は葛藤だらけだ。

葛藤は悪いことではないのだ。必要だし、大切なのだ。そもそも、人体という自然に属する存在と、自然と親和性の低い状態も可能にする社会という人間が生存するためのシステムは、葛藤を生み出し続ける装置だ。

 

私は私のありのままを主として存在することが可能であるし、社会はその私を包摂するものとして形態変容しうるのではないか、いやそもそもそうして多くの私たちを主として社会は変容してきたはず。それは社会運動だとか、変革だとかそんなことではなく。

 

私たちが簡単に自分の価値を譲り渡さなければ済むだけの話。

そんな気がしている。

*1:市場というよくわからない、思い描くイメージによって全くことなるが同種の動力源による不可思議な、人の営みの隅々にまで入り込んでくるシステム。高校生の頃にそれを不思議に思い、経世済民思想の公共性と市場の果て=自然を収奪する市場が草原のイメージとともに立ち上がったのを憶えている。一度投げた問いへの応えは、いつか返ってくるものだが、十数年を経て返ってこようとは思わなかった。

*2:どっぷりそのシステムにはまって利益享受側(勝者、成功者)にあることに無意識だと評することもできるが、あえて反論とか、否定するのではなく、それも一つの感性として肯定したいし、そこに違和感を感じる私の感性も一つの感性として肯定したい。

*3:「市場」の内側にという意味。市場主義という概念はありそうだと思うのだが、近代経済学は市場を前提にしているので、文化人類学なのか、先人たちの捉え方を知りたい。こういうことを話していると知ったかぶりの親切人が出て来て、何かしら著名人を挙げては、私の話したいことと違っていて・・・と説明すると、黙りこまれてしまうというのが学生時代の思い出だ。概念と概念を比較し新たな概念を想定し議論する、既成のものにとらわれない創造性と好奇心を持った相手との出会いはかけがえのないものだ。