委ねる

例えば、ポルコ・ロッソ。

戦時に仲間を失う前のシーンで、
必死になって雲と雲との間を飛行する。

日々の経験則から得た判断体系を手放し、体に宿る感覚に身を委ねて進む。

いやもう進むという感覚すらない。
ただ飛ぶのだ。

あのシーンを思い浮かべると、心が静かに、シンプルになっていくのがわかる。

前後のシーンを含めると、読み取るべきことは別にあるはずだ。(もちろん各自の自由だが)

けれどなぜか、ずっと昔からふと思い浮かべてしまう。

あのシーンを取っ掛かりにして、すでに元の作品からイメージは飛び出し、変質して、別の意味を持ってしまっている。

あんな風に生きたい。雲間を抜けて。
きっと生きられるのだ、今はやり方が分からないけれど。



自律神経失調というのは、生命力に反して過ごしてきたという体からの信号のように思う。

しかしその信号を解き明かすのは、通常の感性ではなし得ない。

それゆえ人々は、薬物や何かを使い、生命力の信号を抑えようとする。

しかしそれももっともな手法なのだと思う。
生命力と向き合うことは、体は健康を取り戻すかもしれないが、社会的には大きな変化を受けざるを得ない。

ドラマや映画でよく描かれることからも、皆薄々は気づいているのだ。

もしかしたらそれらを視聴することで、叶わぬ体の夢たちを慰撫しているに過ぎないのかもしれないけれど。


私が今、こうして留められているのは、自分と向き合うためだと思う。

社会と、体というもっとも身近な自然、つまりは生命そのものとの葛藤と。


雲間を抜けていくイメージは、そのことを暗示していた気がする。


雲の上でも下でもなく、合間を抜けて飛び続けることは、判断を自らの感性に委ねることで叶う。


人生は戦いではない。
調和して生きられるのだと。
その調和は、思いもしないところから与えられる。


もしかしたら、二項対立自体が幻想なのかもしれないけれど。