焦り
録画していたお笑い番組を見て笑いながら
休む前までやっていた仕事のことを思い出してた。
それはすごくいい企画と評価され、他部門を巻き込んで進めるのは簡単ではないが、部内の承認も降りていた。
同じ部の上司や同僚は協力的だった。
進めていれば、間違いなく私の代表的な実績のひとつとなっていただろう。
アイデアをまとめ上げる力としても、それを完成形に仕上げるスキルも、私しかいなかった。
もう何年も報われない日々を送ってきて、ただ自分を信じて周りに流されずに続けてきた集大成になるはずだった。
それが…
ほんのひと月休む予定だったんだ。
8月に病気が見つかって、手術をした。
その後の体力が上手く戻らず、それを取り戻すために。
だから、年度末までには1カ月の遅れを取り戻している予定だった。
あれから半年。
今もまだ体は治ってなくて、ちょうど一年前にも、こうして曖昧な微熱に弱っていた。
私は治ってきているのだろうか…?
あと何ヶ月かかるかもわからない。
すでに長く休み過ぎていて、復帰しても半年は単純作業からの再出発。
そのうち年下の上司が出てきて、使いにくいと思われたりして。
若い子たちとは、どうも意思疎通が難しい。
ああ、これが年を取るということなんだろうか。
そうして、多くの人は自分の願望を置き換えて行くのだろうか。
家族のため、地域のため、誰かのために、役に立つ人間であればいいのだと。
確かに、役に立ったり、役割を得るのは社会を生きる上でとても安定する。
それが公的な度合いが大きくなるほどに、長く続くほどに、報酬に反映されるなら尚更に、その安定効果はさらに大きく、その人を人格者にかえてしまう力もある。
私はそういう人たちを多く見てきた。
そして、そういう人たちが、定年後に報酬が減った際に信じられないほど思いやりのない面を見せた場面も何度か見てきた。
私は何を信頼していたのだろうかと思った。
そして、私自身も小さいながらリーダーを任された際に、同じ状態を経験したことを思い出していた。
それは、私であって私ではなかった。
はじめ、成長した気分になっていた。状況を見極めて、任された役割を果たす。
短期派遣の女性ばかり、年代は様々だったけれど、60代の方に今までで働いていて一番楽しい、と言われ心から嬉しかった。
ルーチンがある中で折衝ごともあるような業務だった。基本的にはお任せし、調整が上手くいかなければ出ていったが、考え方を示せば各自で解決してきてくれることの方が多かった。
(短期派遣の女性の多くは、バックアップ環境さえあれば、リスクのある調整でも自分の考えで進めてくれる自立した方々だった。
正社員だった場合、公私ともに環境にすごく恵まれているか、悪環境でも耐えられるタフさがなければ、返って続かない性格なんじゃないかと、ふと思う。ゆえに派遣という選択の人もいたのかもしれない。なんて、現代の問題について考えてしまった)
まぁ、そんな役割を果たすことが出来て、我ながら満足していた。
しかし、会社の中ではもちろん問題ないが、それを私的な性格と認識されてしまったとき、何かが間違ってると思った。
私が人生で得たいものとは、違うものだと。
そんなに私は素晴らしくない!
正直な気持ちだった。
これも一つの葛藤だった気がする。
多くの人は、役割を果たす中で自分が成長したと思って生きていく。
そして、老いてコントロールが効かなくなって、ひどい例だと不祥事を起こしてしまう人も出てきたり。
そういう仕組みになってるんじゃないだろうか。
ゆえに思う。
もちろん、感謝されるようなことをして生きていくことは否定しない。
人のことをどうこう言うつもりもない。
単なる観察と分析コメントぐらいのつもりで書いている。
だけど私は自分に関して気づいたんだ。
誰にも感謝されたり、役に立って嬉しいなんて思えなくてもいいってことに。
なぐさめはなぐさめに過ぎないんだと。
それよりも、自分が心から嬉しいと思えるような仕事をしたいんだと思う。
誰からも感謝されず、役にも立たず。
そんな仕事がありうるのかすら分からないけど。
何かのひとつの事例としてとか、こういう生き方のサンプルありましたよ、強いて言うなら。ぐらいの役立ち度で、存在できないものだろうか。
葛藤の旅はまだまだ続くみたいだ。