合間に存在するもの

相手の価値観として認めた上で、自分の価値観を主張する

という行動にハードルを感じている。

 

理由としては、自分の価値観に自信がないから。

 

論理性を重んじる価値観を持っているけれど、

それだけでは体調を保てず、確立されていない世界に入らずを得なかった。

 

科学的に否定されているような方法で感じた変化は、

一体なんだと思えばいいんだろうか。

 

錯覚。錯覚だよ。

 

では錯覚で生じた改善の効果自体は存在しないのか?

 

葛藤し続けている自分がいる。

 

論理はあらゆる事象を切り刻んで、その合間に存在していたものすら

見つからなくしてしまう。

 

見つからないものは、絶対に無いとは証明できないが、あるとも証明できないよ。

でも実験の結果、再現性がないってことは、そもそも理論的にもありえないんだから、

因果関係はないんじゃないの?

 

そうい世間の認識と、自分の感性の合間でもがいてる。

どちらの自分も、それぞれの視点で見れば互いに浅はかに見えている。

 

論理は錯覚に踊らされる感性をあざわらい、

感性は合間に折り重なっていくものの豊かさを思う。

 

私は感性の扱いをずっと悩んでいる。

吹かれれば飛ぶようなのが私の感性だ。

 

感性とは生命力の発現なのではないかと思う。

人間の忘れることのできない半分の本性。

非論理的で無秩序で攻撃的な。

 

優しくてやわらかくてふわふわしてて、なんていうのは攻撃性のカモフラージュ。

 

必要なのはもっと強いものだ。

どんな穢れも醜さもそのままに受けとめる強さ。

 

ナウシカでテトが噛み付いたのを黙って見つめる強さ。

腐海のことわりを見つめる強さ。

 

それは論理性でもある。

 

だから、いくら体を司る感性が重要だからと言って、

論理性を捨て去ることもできない。

 

自分の体というもっとも身近な自然と共生する感覚とともに

透徹とした論理性を保持することなんて、できるのだろうか。

 

光はまだ見えない。