苦しみの効用とは負け惜しみなのか

すべてを持っていて幸福に生きていますという人は

どれくらいいるのだろうか。

 

みんな色々あるよ、と人はよく言うけれど

何かあっても苦しみは持続するものではなく、

ある一定ラインに戻るように人間の精神は設計されているように思う。

 

それは逆もまた然りで、うつの人間はうつに戻るように設計されていると思う。

 

何か苦しみに会った場合、そういうこともあると苦しんだあとに

手放せればそれは戻ってこないのだと思う。

 

もともと裕福で精神的にも豊かな家庭に生まれ育った場合、

そういうスキルを持ち合わせている人は多いのだと思う。

 

何の苦労も知らないような、そんな人は多い気がする。

ドラマや漫画で描かれるような人間誰しも欠けたところがあるというのは、

誇張された都合のいい世界観なのではないだろうか。

そう思わなければ、苦しみの癖を持つ民衆はやっていられないからだ。

 

金持ち喧嘩せず。

これが多くの場合の事実なのではないかと思うのだ。

 

苦しみの効用を説いて、それを受け入れ定着させるように勧めるような人は

それは負け惜しみなのではないかと疑ったことはないのだろうか。

 

多くの宗教というのは、そういう不安をエネルギー源として

人間を搾取しているように見えなくもない。

 

だから、巧妙にもっともらしく権威ぶってそれらは説かれるので、

常識のように取り扱われているけれど、実際には事実とはほど遠く、

しかし親がその迷い道に入り込んでしまった子どもは、

金持ち喧嘩せずということを知らずに、ベストウェイを知らずに育つ・・・

その繰り返しで、不幸な民衆は増えていってしまっているのではないか。

 

そして苦しむことも自由だとばかりに、人生を送る人もいる。

小説や歌謡などを観察していると、苦しみのサンプル集のように見えてくる。

時代を経ても同じようなテーマを異なった環境で繰り返している。

 

しかし、それは人間の本質が苦しみにあるからではなくて、

本質は幸福であるにも関わらず、とらわれることの快感に惑わされているから

そんな風に私には思えてくる。

 

幸福になるための活動である宗教が、

実は、幸福になりたい=苦しむままでいる人を増やす装置に

なってしまっているのではないか。

 

文化は、いくつかのベクトルがあるうちのひとつとして、

苦しみを分かち合い繁殖させる装置にもなっていて、

昨今ではそちらの方が優勢になっているのではないか。

 

今朝、息をしてただ寝ているだけでも苦しいのだと気づいた。

眠りに近い意識になれば、幸福感はあるけれど、

絶えず誰かからプレッシャーをかけられているような、

今では習性として、自分でその役割を自動化してしまっているような

そんなことを重いながら、目が覚めた。

 

深く吐く呼吸を行えば、息をしているだけで幸福になれる。

そう知っている私でも、身体意識には枷がはめられていて、

人間とは苦しんでいるのが当たり前の存在だとでも言わんばかりだ。

 

タイトルは、いわば身体意識にすりこまれている私の意識が、

光として投げかけられた、人は幸福な存在だということを思い出せと

言われたことに対して、発した疑問なのだと思う。

 

そして、私は、Yesと答える。

苦しみの効用とは負け惜しみである。