微熱

今朝、なんともけだるくて、うなされて目が覚めた。

微熱があったので、そのまま眠った。

 

午前11時。

肝臓あたりが痛い。

昨日、ラクトフェリンを飲まずに鉄剤を飲んだせいなのかな。。

 

解放する気分にもなれず、一日を無為に過ごした。抵抗。

抵抗していない時間なんて、本当にほんの少しだ。

抵抗を手放すことにすら抵抗するから、本当に「決意」だけが

すべてを動かして行くんだなと思う。

 

決意=意思。

 

昨夜は、耳閉感を感じ取っていたら

大きなものに侵入される感覚やら、明け渡す感覚などに

葛藤している自分に類推が行き着いた。

 

今私の体の中には、2つの意識があって、

自我と大いなる存在と呼ばれるものなのだろうと薄々気づいている。

 

何か特定の宗教イメージをつけるのもいやなので、

それに色んな人の言う神が私のこれと同じとは証明もできないわけで

簡単に人とつるみたくもないので、汎用性の高い用語で表したいわけだけれども

 

前者というのは、握りしめて縮こまってしまって、困っていることも認めたくない、

色んなことにこだわって身動き取れなくなっている人のこと。

身体能力を奪ったり、意識下に押さえつけたりすれば、

身動き取れないほどでもなくなるんだけど、それをやって今病気をしているわけで。

 

後者というのは、それらのことをずっと見守ってくれている人?のこと。

人というか、人間の形をしたこの肉体の幅なんてかすむ感じに大きい。

だから、大いなる存在というのかもしれないなと思ったりする。

主に後頭部〜右耳にかけて、よく感じられる感覚や声。

たまに筆記で対話したりする。

 

私(前者)はいま、この人(後者)に対して、絶賛反抗期らしい。

 

それぞれに自我とか神とかじゃなくて、感覚にもっとシンプルにふさわしい

名前をつけてあげたいけれど、名前というのは、軸があってはじめてつく。

私はその軸が存在する空間をまだ十分に探検できていないから、

誰かの使った名を借りるか、仮に前者と後者とするかしか思いつかない。

 

なんでも簡単にありがたがらないこと。

 

自分で世界を再創造するくらいでなければ。

 

絶賛反抗期の私であるわけだけれど、

親子関係と同じだなと思うのが、後者からの愛にも飢えているわけで。

抵抗しながらも、一体となりたいと乞い願うような。

いや、なれないのが悔しくて、抵抗するんだろうか。

 

親子関係で何を思って反抗するのか、反抗していたのか、

セオリーは知らないけれど、

 

私は親から浸食され続けていて、それが我慢ならなかった、

もしもう一度やり直せることなら、というか日本の教育として

親子とはそれが当たり前ということで反抗期を迎えるのではなくて、

もっと、自分たちの心がどのように変化していて、

だからこうして主張するのだというようなやりとりを

きちんと言語化して行い、大人もそれに向き合う努力を惜しまず

互いに客観視し、大人はイニシエーションとして子どもを導くような

そんな知恵のある関係にはなれないものかと思い続けている。

 

黙って我慢して空気を読んで人に合わせるだけで生きている大人が多すぎるから、

どこから始めるかは難しいところなのだろうけれど。

 

それが出来ないがゆえに、未だに自立心薄く、幼いままに

成人を迎えるのではないかと思うのだ。

しかし、社会人になって以降は、それこそが重要なスキルであり、

社会で認められようと空回りする人たちを見ていて、

共通してその能力に欠けていると感じたことが何度かあった。

 

これまた教えようがないスキルだったりもするけれど、

それは要は社会人ではなく、思春期に得ておくべき自立心というものだから

私はその人の親ほどに関わる必然がないから、教えようがないと思うのだ。

 

おそらく、少し前までの日本の組織では、親子関係にも近い、

緊密な価値観を分かち合うような関係が展開されていたように思う。

そこで個性は搾取されようとも、上司先輩から部下後輩へと、

人とはどうあるべきか、自立とは何かを胸を借りながら学べていたのではないかと思うのだ。

 

話がだいぶそれたように思うが、

もう何年も、大いなる意識との関係には葛藤してきたように思う。

 

第五の山だったか、エリヤと神が何時間も組み合って動かなかったという話があったように思うのだが、その時はわからなかったが、神の言うままにするわけにはいかないということだと今は解釈している。

 

ただ明け渡すわけにもいかないのだ。

 

反抗する今の自分も十分に認めていようと思う。