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召命と幻想と

朝早く散歩に出て、午前中はずっとひまだなと思いながら起きていて

時計の針が12時をまわったあたりで眠りに落ちてしまった。

 

電話で起こされて、かれこれ1時間ほど寝ていたことになる。

ものすごく深い眠りだった。

リビングで寝てしまったので、眠りにくくにうなされて30分後に一度目が覚めたけど

そのあと30分は意識がなかった。

 

ちゃんと今朝疲れたんだな、と思った。

そして、ちゃんと休息できた。

体の求めに従おうと思う。

 

まだ寝ようと思えば、いくらでも眠れそうだけど、

ずっと気になっていた悩みを書こう。

 

否定したい気持ちと、教会を離れてしまった自分には相談する相手もなくて

確認しようもないとしりぞけたい気持ち、おこがましいという気持ちがある。

 

それは、これは召命なのではないかという感覚だ。

もちろんすでに一度は信徒となったわけで、そこから何が変わったわけでもない。

信仰は常にあり、それがこれまで以上にはっきりしてきたという感覚。

いや、常にあるようでそれは遠く、神への信頼を今、取り戻そうとしている、

だからこそはっきりしつつあるのかもしれない。

 

こんなことは、本当は書きたくもないことだ。

誰にこれを言うべきはずのものでもないし、神と自分との間に話されるべきことだと思う。

そこで何か現実が変わるとか、何かが変わるというわけでもない。

 

ただ、これを考えている時、神と対話するとき、自分が危ういのではないかと思うのだ。

幻想なのではないかと思うのだ。

 

だからこそ、自分自身に隠してしまわない場で書きたいと思った。

 

対話は幻聴という形ではない。

聴く耳を持って居ると、賢い声と対話できる。

その声の主が発する言葉はイメージに近くて、私はそれを自分で言葉に当てはめて

意思疎通を図っている。

 

これはどうも、私の受容幅によって変えられるらしい。

わかる言葉以外聞きたくないからのようだ。

 

もちろん、夢などを考えればわかるように、知らないことも出てくる。

知らないというより、忘れてしまっているようなこともだ。

それ以外のことは私にはわからない。

スペイン語で必死に話そうとしながら、夢から目覚めたことはある。

そういうこともあるのが、脳ではないかと思う。

 

マザーテレサの手記を読み進めるにつれて、

私がずっと求めていたことが書かれてあるように思えて仕方がない。

 

私の神、というようなものがあるのではないかと思うのだ。

私の場合は、神道でも仏教でもなかった。

生まれて以来のカトリックキリスト教、直接いまは受け入れられないのだが、

その周辺に存在するイメージがもっとも親和性が高いようなのだ。

 

小学生時代に神様がいるか証明してと神父様を試し、

「あの子は危ない」と父母に告げられてしまったことがある。

そう、危うかったのだ。もう限界だった。居場所のない時代。

 

けれど、それでも私は誰にも救いの手を差し伸べてもらうことなく、

これまで生きてきた。

 

そして、見つけ始めたのは、ある種の感覚だった。

それは声となって、その人が救われた人なのか、探し求めている人なのか

どれだけいい人かという評判などとは別に私にはわかってしまう。

 

今、頭の中で対話する声は、その感覚を現している。

私を救われた者とする導きの星のように、私が求めるほどに輝いて見える。

 

考えることも恐ろしいが、これまで私はこの導きの星を無視し続けてきた。

受け入れはじめた私は、羽化したばかりの蝶のように、たやすいことで傷つきやすい。

それゆえに私は恐れている。

 

私がしようとしていることは、誰も望まず、人の真実を暴いてしまう。

真実を隠して生きている多くの探し求めもしていない人からすれば、

大変迷惑で危険な存在となる。

 

しかし、私は力を持ってしまう。

人々を魅了し、惑わされる事ももうなく、感銘を与えてしまう。

不遜にもそう思っている。

 

何人かのセラピストと接した時、その治療の効果として、その自分になったことがあるからわかる。

 

すべての人の心情を穏やかにする落ち着いた声、柔和で生命力にあふれた体。

 

そうなった時の、自分の威力がわかるのだ。

たまに会議のプレゼンなどで、弱いながらに使うが、絶大だ。

どんなに難しい人でも、受け入れ話すことで協力を引き出せた。

倒れるまでの数年のうちに、見る間に私は大きな仕事を任されるようになっていた。

 

力が大きすぎるだけに、それを使う自分が心もとない。

自分に自信がない。なぜなら偽って生きているから。ずっとそうしてきたから。

 

やっとキリスト精神とともにある自分を今は見いだせるようになったが、

それまではどちらかというと虚無主義者だったように思う。

都合主義的に、解放や様々なエネルギーイメージを使うことはあったが、

統合できていなかった。

 

全員に復讐し続けてきた。

真実の私を開示しないことで、すべての人を裏切り続けてきた。

だまされている人たちの無知を、感性の鈍さを冷たい目で見てきました。

そうして冷ややかな怒りを向け続けて、生きてきました。

 

幻想の中を生き続ける彼らが、心底嫌いだったからです。

 

また書こうと思います。

幻想の中を生きる彼ら=投影、そんなことなど。

論理で様々な投影を解除してきましたけれど、意識で制御できる範囲だったようです。

両方から限界がきて、生命で制御すら手放して投影を解除することになりそうです。

 

頑張ります・・・