生きる道

書かなくちゃ。と思っていたこと。

 

私は、自分の好みをつっと避けて通る癖がある。

「そんなのわかってるから、もっと違うものを求めましょう。」

なんて言うみたいに。

 

好きかどうか、愛おしく感じるかよりも、

インテリアとして調和してるかとか、自分に似合うかとか、

手頃に手に入れられるかとか、替えは効くものかとか。

 

反対に、本当は嫌だと思っていることも、そう考えないようにすることが多い。

 

今朝は、治療の資金がショートする夢を見た。

納得はしつつも、預金を取り崩すのは嫌だと思ったり色々と本音が見え隠れする。

 

あれはおかしいと本当は思っているのに、あれはおか・・・の途中で

思考がさしはさまれて上書きされていくのを、私は見ている・・・

 

私の日々の思考は、この夢に象徴されるように、常に上書きされている。

自分が考えたこと、思ったことは、すべて自動的に無かったことにする仕組み。

 

自分のままで生きると、人に嫌われ貧乏になり餓死する。

 

そんなくだらない妄想が、私を動かしている。

 

だから、私は常に効率を考えて、いつ危機に陥っても

生き延びれるよう備えるのが好きだ。

 

幼児の頃から、そういう設定で生き延びる家を考える遊びを繰り返していた。

(友達には、また?と、いやがられていた。執着は度を越していたようだ。)

 

どれくらい切り詰めてならやっていけるだろうか、

何なら切り捨てていいだろうか。それでも楽しめるか。

人として最期まで保つべきは何だろうか。←これは大人になってからの問い。

 

私の親は経済的に困窮し、自分の人格を変えなければ、私を育てられなかった。

大切な自分の感覚を切り捨てて、自分の心をかなぐり捨てて、

お金を稼ぎ、節約をして、どうにか暮らしてきた。

母は、世間と同じくらいの生活水準であることを求めて頑張っていたのだろうか。

どこかで壊れてしまっていたのかもしれない。

 

私は、そうして育ててもらったことに、感謝している。

女性でありながら、自活できる職業につけるだけの教育を与えてもらって、

そのおかげで経済的困窮からは免れた。ひとえに母の苦労によるものだ。

 

その反面、それだけでは済まされない心の傷を抱えてしまっている。

これを消化できなくて苦しんでいる。

 

いつか、自分もそうなるんじゃないかと怖くてたまらないのだ。

だから、先に自分の大切な物は捨てて選択してきた気がする。

経済的に困らないように、困ったときにも再び立ち上がれるように。

 

私にとって人生は、行く先々に苦難が満ち満ちていて、

人格すら犠牲にしなければ成り立たないぎりぎりのもの。

 

お金がないだけなら、働く量を増やせばいい。

お金を稼ぐだけでなく、節約も全て、働く量を増やすということだ。

 

うちは、父母ともに体が悪かった。

本当はどちらもそんなにハードに働いてはいけない人たちだったはずだ。

父は、早々と音を上げた。母は、ある人にあなたが働けばいいと言われ、

何度も精神を壊しながら、さらに無理をして何度も癌になりながら働き続けた。

 

人生は残酷だ。

救いなど無い。

 

神に求めるくらいしか、救いは無いんだ。

 

それでも、私は両親に問いたいんだ。

いつから心の余裕をなくしてしまったのか。

本当に自分の大切な感覚を見失わずに、乗り越えることは出来なかったのかと。

 

その問いは、私自身にはね返ってくる。

 

心身を患い、経済的に困窮し、救われることすら怖く、

餓死する方を選んでしまいそうな自分に。

 

この先に、生きる道はありますか。