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幻想は癒せるか

生きるのが怖い

母のような人生を送るのが怖くてもがいている

 

幻想から抜け出すのではなく、

幻想を癒やす、ということは可能なのだろうか

 

抜け出すことばかり考えていると

記憶の連続体としての自分を見失ってしまう。

 

ヒエラルヒーから出てしまえば、それも成り立つだろう。

抜け出た自分も連続体の中に組み込んで成立するのだ。

そういう幻想を分かち合える人と生きていくことになるだろう。

 

そして、抜け出せてない人に、新たな幻想を吹き込む。

 

でもそれでは、終わりのない輪の中をぐるぐると回っているのと

何も変わらないのではないかと思ってしまう。

 

幻想が新しくなっただけで、社会から遠ざかっただけで。

 

延々と増殖し続ける中心部を辺縁から見ているのと

何も変わらないのではないか。

 

全体として何一つ成り立っていないではないか。

 

子どもを産み育てることは、全体の共同体との関係性を見直すことになる。

 

その子を自分と同じ辺縁の者とするか、

抜け出ることのできない社会の端の人間とするか、

はたまた社会の中で偽りの自分で生きることを教えるのか。

 

自分はその共同体とは関係ありませんというのは違うんじゃないかと思うのだ。

社会が生み出した技術を一切使わないコミュニティなど存在するのだろうか?

 

子どもというのは、ごまかしが効かない。

奥に潜む意味も感覚として受け取ってしまう。

親は完璧ではありえないけれど、奥に潜むものによっては壮絶な破壊力を持つ。

幸福な人生を送るか、何かを抱えてしまうか、

親として子の幸福を願うなら、自己を捨ててでも

少しでも多くの幻想を幸福をもたらすものとして教えることが出来るのだろうか。

 

だとすれば、子どものいるいないに関わらず、

同じことを自分自身にも行う方がいいと思う。

 

子どもは単なる言い訳だ。それすらが有害な幻想であったりもする。

だからこそ、自分自身のためにどれだけ幻想を癒せるかにかかっているのではないか。

 

・・・

自分の中に、様々な考え方の流れがある。

論理矛盾を生み出していないかと、相互に検証してみたりする。

 

しかし、それをする前に、ひとつの考えに偏ってでも

ひとつの世界を構築している考え方を吐き出してみる方がいいのではないか

最近そう思えてきた。

 

その方が、ずっと意識に上げられないでいた残りの大きな部分を含めて

抑圧を少なくできるのではないかと思う。

 

私はそういう存在として、たぶんいまここにいる。