うつ病の世界

うつ病は、「まともではない」ということなのだろうか?

 

「まともな社会」において、働き手として効率を保ち仕事をするには

過敏で攻撃性が見え隠れし自己を責めたりする「無駄」が生じた状態は

「非効率」で「周囲にも影響」を及ぼす。

だから、うつ病は病気であり、「まともではない」。

・・・これが通常の見方だろうか。

 

だから何度リバウンドしても、人は「まとも」に戻ろうと努力するのだろうか?

 

うつ病は、正直な目で「まともと思われている社会」を見ると

罹ってしまう病気、という可能性はないだろうか?

 

子どもの頃を振り返ると、何度もうつ病と思われる症状を持ち、

私の物の見方は、わがままと押さえつけられてきた。

今の状況は、あの頃と何も変わらない。

 

「まともな社会」の一員にもなり、その楽しさも味わった事もある。

聴覚神経を調整すれば、まるで人が変わったかのように楽に現代社会に適合し、

リア充とはこのことかと思った。

 

しかし、その数年後には両方の状態を行き来する埒の開かない状態になった。

聴覚神経の調整をすれば、もちろん短期的には戻る。

無意識に恐怖が肉体の方に染み付いていて、それに引き戻される。

そんな感覚だった。

 

恐怖は緊張を生む。筋膜(筋肉を包む膜)が収縮し、体を縛る。

胸郭を締め付け、心臓を締め付け、呼吸は浅くなって苦しい感覚が起きる。

つまりは「死の恐怖」が実際に再現されていることになる。

 

恐怖は幻想であり、中毒になっている。それを見極めれば解放される。

大抵の精神世界ではそのようなことを言う。

 

そのような精神状態もわかる。

すべてがつながっているように感じて、それでいて細部の差異も的確にわかる。

聴覚神経の調整をした後も、同じ状態になる。幸福な心地だ。

呼吸は楽になり、全身の緊張はほぐれる。

よく物が見えるように聴こえるようになるのだ。

 

けれど、私は怖くて萎縮してしまう。

自分がその楽な自分になると攻撃される。殺される。

 

もちろん、うつ病というこの精神状態が、症状のぶり返しであり

「治る」べき状態だという捉え方が一般的だろう。

 

しかし、私の方がまともで社会の方が病んでいるのだとしたら?

正確に言うなら、社会の方が病んでいることを隠してたがっているのだとしたら?

 

私は、妄想狂だろうか?笑。

 

私は極めて自分がまともな発想をしているように思えてならない。

多少おびえてはいるものの、冷静に批判精神を持って検証に臨む精神状態にある。

 

 

人は、光にあたった面と影の自分を統合したいと思っている・・・

 

社会というのは、主に光にあたった面で生産性を保っている。

影の部分は、隠されたり、隅に押しやられたり、攻撃されたり

反対されたり、見えないものとされたり、禁じられたりしてきた。

 

今、さまざまな伝統が解体され、より自由に幸福を追求する歴史が動き始めている。

影になった部分は、光と影は一つであるとして動き始めている。

長く影とされてきた怒りが発せられている場合もあるだろう。

それと同時に、光のあたった面は自身を明るいまま保つため

攻撃を始める場合もあるだろう。生存本能である。

現代社会のコンフリクト(葛藤)は、すべて同じ原動力によるものではないか。

 

 

うつ病の精神状態というのは、

自らの影を知った人物が、光のあたった面から攻撃されることを恐れて

先に自らの内で自らを攻撃するのだ。「自分はまともではない」と。

 

そのように考えると、うつ病を患う人物とはある意味「正直な人間」なのだ。

正直に、光のあたった面と影の部分を見ている人間なのだ。

 

私自身、まだこの考えに葛藤を感じる。

攻撃的に批判し、否定したい衝動に駆られている。

葛藤を続けていこうと思う。