現時点

今日は少し頭痛がして

泣きたい気持ちで思考がうまく働かない日だった。

 

症状をひとくくりにして病気の名前をつけてしまうことは

簡単だけれど症状を忘れることにもつながる。

「この痛みは生理だからだ」と理由だけで知ったような気になって

なんとなくやりすごしてきた。

 

症状をひとつひとつ見てみると

頭が痛むのは、目の使い方によって違う

すべての光を受け入れるように見れば痛みはやわらぐ

一点を見ると気がつけば頭痛がする。

 

わかるようでわからない。もう何年もこの葛藤のまま。

症状に意味はあるという物の本によれば、

その症状が起きているときに想像していることなどにヒントがあるという。

 

瞑想の最中に浮かぶ思いにレッテルを貼って流していくという方法がある。

似ているなと思った。

 煩悩(症状)をひとくくりにして名前(病名)をつけて流すのだ。

 

煩悩(症状)にひとつひとつ向き合う手法などあるのだろうか。

それともこれは、煩悩にかかずらう無駄な行為なのだろうか?

 

私がこれまで行ってきたのは、このどちらとも違う方法だ。

すべてを開いて受け入れて、体の骨を響かせて流してしまう方法だ。

 

よく意識で人はひとつだとかつながっているというけれど

数年前、私は実際に聴覚で空気の厚みが増すのを感じたことがある。

こんなにも世界には音があふれていて生命は輝き、

響き合いつながっているのだという経験をした。

その場にいた人たち皆がそれを経験し、不思議な親近感の中での付き合いが続いた。

 

これは、訓練は必要だが、訓練すれば可能だ。

最近では研究が進み、聴覚機能の作用として

生理学的にある程度まで説明出来るところまで来ている。

 

意識とか想像とか理解とかそういうのではなくて、

事実、人と人は肉体でもつながっている。

(けど音が小さくて気づいていない)ということなのだろうかと

本気で考えてしまう。

 

さておき、あれからもう何年も経って

時折、話している時にその頃の響きを宿した自分になる。

ところが、それが怖くて仕方なくなる。

体の準備はできているけれど、心の準備ができていないみたいだ。

 

すでに会得している仲間となら、いくらでも自由になれるけれど

一人であったり、響きが少ない人の前だとすぐに怖くなってしまう。

 

響きで流してしまうのが本道なのだけれど

びびりな私はそこを越えられない。

そう、多分、受け入れてもらえない不安というのが

とても大きくて、人と違うことが出来ないびびりなんだ。

 

幼い頃から隠してきた悲しみと葛藤に向き合うことで、

すべての自分を受け入れて、夢のようなあの夏の響きを

もう一度体験したい。